日本の古代から中世にかけての鉱業の発展は、単なる技術革新にとどまらず、国家形成や社会構造の変革、そして対外関係にまで及ぶ広範な影響を及ぼしました。本記事では、鉄器の普及や貨幣鋳造、日本独自の製鉄技術がどのように確立されたのかを紹介します。
弥生時代から古墳時代:金属器文化の幕開け
紀元前5世紀から4世紀頃、日本列島に大きな変革が訪れました。約1万年続いた縄文時代から弥生時代への移行期にあたるこの時期、大陸から水田稲作技術とともに、青銅器と鉄器が伝来したとされています。
特に鉄器の登場は、当時の日本にとって画期的な変化をおこしました。それまで木製だった農具が鉄製に変わることで、固い土を深く耕せるようになり、作業効率は4倍近く向上したと言われています。この生産性の飛躍は、農業の安定と人々の生活改善をもたらしました。
やがて古墳時代になると、朝鮮半島との交流がさらに盛んになり、「渡来人」と呼ばれる技術者たちが製鉄技術を日本に伝来させました。これを機に、鉄の国内生産が本格化していきます。
またこの時代に登場したのが、日本独自の「たたら製鉄」です。砂鉄を原料に、木炭を燃料として土製の炉で鉄を生み出す技術で、後の工芸や産業の発展にも大きく貢献しました。たたら製鉄は日本の技術と資源に適した方法として、各地に広まっていくことになります。
飛鳥・奈良時代:国家プロジェクトとしての鉱業
飛鳥・奈良時代になると、鉱業は単なる技術ではなく、国家の威信をかけた事業として扱われるようになります。その象徴が、708年に鋳造が始まった「和同開珎」です。
この年、武蔵国(現在の埼玉県)秩父郡で良質な自然銅(和銅)が大量に発見されたことが契機となりました。元明天皇はこれを吉兆とし、年号を和銅に改め、全国に鋳銭司を設置して貨幣の鋳造を開始しました。こうして誕生した和同開珎は、日本初の本格的な国家貨幣として位置づけられています。
この貨幣は、単なる経済的な道具にとどまらず、中央集権体制を支える重要な手段でもありました。統一通貨の発行によって、税の徴収や物流の円滑化が図られ、律令国家としての基盤が整えられていったのです。
和同開珎の鋳造は、単なる経済活動に留まらない、政治的にも極めて重要な意味を持っていました。統一的な貨幣が全国に流通することで、中央政権の権威が確立され、物々交換が主流だった従来の経済システムから、貨幣を介した効率的な取引へと大きく転換しました。これにより、税の徴収や物資の流通が飛躍的に円滑になり、律令国家体制の確立に大きく寄与したと言えるでしょう。米や布で納められていた税が貨幣で納められるようになったことは、まさに経済の大きな転換点でした。
また、この時期には銅の大規模な利用が始まった時期でもあります。その象徴ともいえるのが、752年に開眼供養が行われた東大寺の大仏です。日本経済新聞の試算によれば、この巨大な銅像の建立には当時の鋳造技術の粋が集められ、約500トンもの銅が使用され、現在の価格で4657億円もの建造費がかかったと言われています。
大仏の建立は、仏教興隆の象徴であると同時に、当時の日本が持つ技術力と資源を結集した一大事業でした。これは国内統治の安定を示すとともに、遣唐使を通じて中国にも日本の国力を強く印象づける機会ともなりました。
平安時代:鉱山開発の本格化と国際貿易
平安時代に入ると、鉱山開発の技術はさらなる進歩を遂げ、土中から掘り出される金属の種類も格段に増えました。金、銀、銅、鉄、そして水銀など、多種多様な鉱物が採掘されるようになり、採掘方法も時代と共に進化していきます。
採掘技術も徐々に発展し、坑道掘りの技術が導入されていったと考えられています。後の時代には、この坑道掘りの技術がさらに発展し、「間歩(まぶ)」と呼ばれる銀を採掘するための坑道が作られるようになりました。
平安時代における銀山開発は石見銀山と対馬銀山で行われ、
- 採掘効率の向上
- 生産量の増加
- 鉱山集落の形成
といった結果を生み出したのです。
経済面では、鉱業が日本の対外貿易に大きな影響を与えました。9世紀後半、日本は主に大宰府を窓口として中国(唐)と交易を行っていましたが、その際に決済手段として用いられたのが砂金と水銀でした。平安時代後期、特に日宋貿易の時代には、日本が金を主要な輸出品としていたことがわかります。
日本産の金は宋(中国)で高く評価され、主に高価な絹や陶磁器との交換に用いられていました。この貿易によって日本は相当な利益を得ていたとされ、当時の日本産金が国際市場で極めて高い価値を持っていたかを示しています。
一方で、国内では「皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)」と呼ばれる一連の貨幣が鋳造されました。これらの貨幣の製造には大量の銅が使用されたと言われていますが、、鋳銭用の銅の不足や、貨幣の品質低下などの問題が発生し、958年を最後に鋳造は中止されてしまいました。
このように、平安時代は鉱山開発技術の進歩と、鉱物資源を活用した対外交易の発展に特徴づけられます。しかし、貴金属が海外へ流出したことは、次第に国内の金銀不測を引き起こし、後の時代の経済政策に大きな課題を残すことになりました。
鎌倉・室町時代:技術革新と銀山の発展
鎌倉・室町時代になると、鉱業技術にさらなる革新が起こります。16世紀半ばに導入された「灰吹法(はいふきほう)」は、当時金銀の精錬効率を劇的に向上させる画期的な技術でした。佐渡金山の公式情報によると、この技術は以下のような工程で行われました。
①細かく砕いた鉱石から金銀分(不純物を含む)を回収し、鉛とともに炭火で溶かして金銀 と鉛の合金を作成
②その合金を灰を敷いた鍋の中で熱すると、最初に鉛が溶けて灰にしみ込み、金銀だけが残る
この灰吹法の技術により、それまで採算の取れなかった鉱脈からも、効率よく銀を採取できるようになりました。その結果、日本の銀生産量は飛躍的に増加したのです。
経済面では、中国からの銭貨(宋銭)が大量に流入したことで、日本国内での貨幣経済が急速に発展しました。また、戦国時代に入ると、各地の大名たちが自国の財政を潤すため、積極的に鉱山開発を行います。
その代表例が、石見銀山(いわみぎんざん)です。17世紀前半の石見銀山の年間産出量は約38トンと推定されており、これは世界の銀生産量の約3分の1を占めていたと考えられています。この莫大な銀の産出は、日本の対外貿易を支えるうえで、極めて重要な役割を果たしました。
この時代の銀生産の飛躍的な増加は、日本の対外貿易を大きく変革しました。日本産の銀は、中国やポルトガルとの貿易で主要な決済手段となり、絹、陶磁器、火器などの重要品の輸入を可能にしました。銀を介した国際交易の拡大は、日本に新たな技術や文化をもたらし、戦国時代から安土桃山時代の社会に多大な影響を与えたのです。
まとめ
古代から中世にかけての日本の鉱業は、弥生時代の鉄器が農業に革命をもたらし、人々の暮らしを変えたように、社会の基盤を築く原動力となりました。
飛鳥・奈良時代の和同開珎鋳造や大仏建立は、国家の統治機構と権威を確立する重要な支えとなり、平安時代の金銀は国際貿易の要として日本の存在感を高めました。このように、この時代の鉱業は、日本の社会と国家が形作られていくうえで重要な役割を果たしたのです。
【出典】
島根県観光協会 「しまね観光ナビ」 石見銀山の項目
https://www.kankou-shimane.com/spot/10007
東大寺公式ウェブサイト 「大仏(盧舎那仏)」のページ
https://www.todaiji.or.jp/contents/buddha/
『日本鉱業史』(1968年、日本鉱業会編)第一編第二章:
独立行政法人 造幣局 ウェブサイト 「貨幣のはじまり」
https://www.mint.go.jp/kids/knowledge/begin.html
公益財団法人 鉄の歴史村地域振興事業団 ウェブサイト 「たたら製鉄」
https://www.tetsu-no-rekishimura.or.jp/tatara/
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