日本の近世、特に江戸時代(1603-1868年)は、鎖国政策下にありながらも、鉱業技術が独自の発展を遂げ、国の経済に大きな影響を与えた時期です。本記事では、17世紀から19世紀中頃までの日本の鉱業技術がどのように進歩し、それに伴う経済的影響について、時系列に沿って解説します。
江戸時代初期の鉱山開発(17世紀初頭〜中頃)
江戸幕府が成立すると、日本の鉱山開発は急速に進展しました。徳川家康は鉱山を重要な財源と位置づけ、多くの鉱山を幕府の直轄地としました。この時期の代表的な鉱山として、佐渡金山と生野銀山が挙げられます。
1601年に開山したとされる佐渡金山は、以後、幕府の重要な財源として発展を続けます。佐渡金山では、江戸時代を通じて、古くから伝統的な採掘技術が用いられました。その代表的な手法の一つが「大流し」と呼ばれる砂金の採取方法です。これは、水を使って砂金を含む砂や軽い石を洗い流し、金の粒子を選り分けるというものであり、この技術の導入によって佐渡の産金量は飛躍的に増大していきました。
佐渡島で採掘された金は、主に「小判」と呼ばれる金貨の製造に用いられ、約200年間にわたり日本の貨幣経済を支える重要な役割を果たしました。さらに、17世紀半ば以降には、佐渡産の小判が中国やオランダとの貿易決済にも使用されるようになります。このように、佐渡金山は幕府の対外貿易を支え、江戸幕府の財政基盤強化に大きく貢献したのです。
一方、生野銀山は16世紀中頃から本格的な採掘が始まり、江戸時代には幕府の直轄鉱山として重要な地位を占めるようになりました。坑道掘削や排水技術の向上に注力した結果、最盛期には月産約562kgの銀を産出するまでになります。かつては人がほとんど住んでいなかった生野の麓は、この活況を受けて家々が立ち並び、「白口千軒(しらくちせんげん)」と称されるほどの賑わいを見せました。
江戸時代中期の技術革新と生産拡大(17世紀後半〜18世紀)
江戸時代中期に入ると、新たな鉱山の開発と、それに伴う画期的な技術革新が、鉱業生産をさらなる高みへと押し上げます。
1690年、現在の愛媛県に位置する別子銅山で大規模な銅鉱床が発見されました。住友家により1691年に開坑された別子銅山は、わずか5年後には2700人もの従事者を抱える鉱山町を形成し、日本最大の銅山へと成長しました。
その結果、1697年頃には日本の銅生産量が世界一となり、別子銅山はその4分の1にあたる約1500トンを占めるまでになったのです。
別子銅山で特筆すべき技術革新は、「南蛮吹き」と呼ばれる銅と銀を効率的に分離する高度な製錬技術の導入です。これは住友家が約100年前に海外から導入し、日本で実用化に成功したものです。この技術により、それまで銀を分離せずに輸出されていた銅から高価な銀を回収できるようになり、銅の純度向上と同時に経済的な損失を防ぐことが可能となりました。
このような技術革新と生産拡大の結果、別子銅山は283年間もの期間にわたり操業を続け、約65万トンの銅を産出しました。この実績は、日本の銅輸出と経済発展に絶大な貢献を果たした証と言えるでしょう。
またこの時期には、日本の製鉄技術も大きな変化を遂げ、「近世たたら」と呼ばれる新しい時代を迎えます。17世紀末に発明された「天秤鞴(てんびんふいご)」は、炉内の温度を効率的に高く保つことを可能にし、鉄の生産量と品質を飛躍的に向上させました。
さらに、山間部の砂鉄を採取する画期的な方法として、「鉄穴流し(かんなながし)」という砂鉄採取法が確立されました。これは山の斜面を水で洗い流し、比重の違いを利用して純度80%以上の砂鉄を得る技術です。加えて、製鉄設備を覆う「高殿(たかどの)」の建設や大型製鉄炉の整備により、鉄の生産規模は拡大していきました。
長崎貿易と鉱産物輸出の拡大(18世紀〜19世紀初頭)
「鎖国」という言葉が示すイメージとは裏腹に、日本は長崎を唯一の窓口として、海外との貿易を継続していました。この長崎貿易において、日本の鉱産物、特に銅は極めて重要な輸出品として、日本経済に大きな影響を与えたのです。元禄時代(1688-1704年)は長崎貿易の最盛期であり、日本の金、銀、そして大量の銅が海外へと送り出されました。
特に銅の輸出は圧倒的で、1700年前後にはオランダとの貿易額の約80%を占め、年間15万トンもの銅がオランダへ輸出されていたと言われています。さらに、日本産の銅は清の銅銭鋳造原料の6〜8割を占めるなど、アジア経済圏で重要な役割を果たしていました。
このように、「鎖国」と呼ばれる時代にあっても、日本は長崎貿易を通じて生糸、砂糖、薬品、香料など多様な物資を輸入し、国内経済や文化に大きな影響を受けていました。そして、この国際交易を支えた主力輸出品こそが、日本の鉱山から産出された高品質の銅だったのです。
幕末期の西洋技術導入と鉱業の変革(19世紀中頃)
19世紀中頃、欧米列強のアジア進出が活発化するなかで、日本は西洋の科学技術に対し強い関心を抱くようになります。特に、アヘン戦争で清国が大敗したという知らせは日本に大きな衝撃を与え、国防力強化の喫緊の必要性を痛感させました。この危機感から、幕府や各藩は、西洋の先進技術の導入に積極的に乗り出します。
その代表的な例が、反射炉(はんしゃろ)の建設です。反射炉は、金属を高温で溶かし、大砲などを鋳造するための溶解炉であり、それまでの日本には存在しなかった技術でした。佐賀藩は1850年に日本で最初の反射炉の建設に着手し、1852年には鉄製三十六ポンドの鋳造砲の製造に成功しました。
この佐賀藩の成功は各地に波及し、その成果を受けて幕府も江戸防備のために反射炉建設を推進しました。これに呼応するように、韮山(にらやま)や萩藩なども次々と反射炉を建造していきます。特に佐賀藩は、これらの建設を技術的に支援したことで、西洋式の製鉄技術が日本中に広まる大きなきっかけとなったのです。
生野銀山では、1867年にフランス人技師であるフランシスク・コワニエを招聘され、近代的な採掘・精錬技術が本格的に導入されます。コワニエは約10年間にわたり、ダイナマイトによる火薬爆破の導入、鉱石運搬のための軌道の敷設、巻き揚げ機の設置など、採掘と運搬の効率化に尽力しました。また、湿式製錬法の導入により銀の回収率を向上させ、鉱山の生産性を大幅に改善しました。
さらに、コアニエは日本初の鉱山学校を創設し、将来の日本人技術者の育成にも力を注ぎました。彼のこの取り組みは、生野銀山だけでなく日本の鉱業全体の近代化のモデルケースとなり、後の日本の産業発展に大きく貢献したと言えるでしょう。
このように、幕末期には西洋の技術を積極的に取り入れる動きが活発化し、これらの試みが、明治維新後の日本の急速な近代化と産業革命の強固な基盤となっていったのです。
まとめ
江戸時代の日本の鉱業技術は、鎖国政策下にありながらも独自の発展を遂げ、国の経済に多大な影響を与えました。佐渡金山などの大規模鉱山開発は、幕府の財政基盤を強化するとともに、長崎貿易を通じて国際的な交流を維持する重要な手段ともなりました。
幕末期に導入された西洋技術は、日本の鉱業が近代化へと飛躍するための確かな土台となったのです。そしてこの時期に培われた技術と経験は、明治以降の急速な産業発展へと直接つながっていくことになります。
【出典】
政府広報オンライン 「徳川幕府の金山」
https://www.gov-online.go.jp/eng/publicity/book/hlj/html/202210/202210_05_jp.html
観光庁 「佐渡金銀山の歴史、見どころ」
https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/R1-01446.html
朝来市 「史跡 生野銀山」
https://www.city.asago.hyogo.jp/soshiki/24/1119.html
神戸新聞社 2017年3月14日「鉱山町・白口の歴史を後世に 朝来で特別展」
https://www.kobe-np.co.jp/news/odekake-plus/news/detail.shtml?url=news/odekake-plus/news/pickup/201703/10000528
住友グループ広報委員会 「別子銅山記念館」
https://www.sumitomo.gr.jp/history/related/besshidouzan/museum.html
住友金属鉱山 パンフレット
https://www.smm.co.jp/corp_info/pdf/smm_pamphlet.pdf
伊豆の国市 「韮山反射炉とは」
https://www.city.izunokuni.shizuoka.jp/bunka_bunkazai/manabi/bunkazai/hansyaro/documents/hansyarotoha.html
朝来市観光協会生野支部 「ジャン・フランソワ・コワニエ」
https://www.ikuno-kankou.jp/greatman/francisque-coignet/
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