日立鉱山の歴史 ― 日本有数の銅山へ急成長した理由と大煙突による煙害対策

March 17, 2026

銅は、電気自動車(EV)や再生可能エネルギー、データセンターの拡大によって、今後ますます重要性が高まっている金属です。

最近では将来的に深刻な供給不足が指摘されており、銅資源への関心は年々高まっています。

こうした銅産業の歴史を語る上で、日本でも重要な役割を果たした鉱山の一つが、茨城県日立市に存在した「日立鉱山」です。

1905(明治38)年に実業家・久原房之介によって開発された日立鉱山は、わずか数年で日本有数の銅山へと急成長し、日本の近代化と工業発展を支える重要な役割を果たしました。同時に、銅の増産によって発生した煙害問題にも直面し、企業と地域社会が環境問題に向き合う歴史を残した鉱山でもあります。

本記事では、日立鉱山跡地に建てられた「日鉱記念館」での展示資料や現地取材の写真をもとに、日立鉱山が日本有数の銅山へと成長した理由と、煙害問題への取り組みについて紹介します。

日本の近代化を支えてきた銅鉱山「日立鉱山」

日立鉱山の全景

日立鉱山は、1905(明治38)年12月、実業家の久原房之介(くはらふさのすけ)が赤沢銅山を買収して開業した銅山です。この開業は、現在のJX金属グループの創業でもあり、同時に工業都市・日立市の発展の原点でもありました。茨城県の近代鉱工業の発祥とも位置づけられています。

久原房之介の銅像と年表

日立鉱山は開業後わずか数年で日本を代表する大銅山へと成長し、1981(昭和56)年の閉山までの76年間、日本の近代化と経済発展に貢献しました。採掘された鉱石は累計約3,000万トン、銅量にして約44万トンにのぼります。鉱内で最も深い地点は地表から950m、坑道の総延長は約700kmに達し、これは日立市から大阪府までの距離に相当します。

日立鉱山の鉱床と坑道の透視図

わずか4年で日本を代表する鉱山に急成長した理由とは

日立鉱山が驚くべきスピードで成長したことは、数字が物語っています。久原が開発に着手してからわずか2年後の1908(明治41)年には全国4位の銅生産量を記録し、開業から6年余りで全国3位にまで上り詰めました。

この急成長の背景には、複数の要因が挙げられます。日露戦争後の近代鉱工業の興隆という時代の追い風に加え、藤田家や長州人脈を背景とした潤沢な資金調達力、そして久原を慕って集まった優秀な人材の存在が挙げられます。さらに、日立鉱山自体が豊富な埋蔵鉱量を有していたことも大きな強みでした。

赤沢銅山買収契約書

他社に先駆けた「買鉱製錬」モデル

なかでも特筆すべきは、久原が他社に先駆けて展開した「買鉱製錬」という経営モデルです。これは、自山の鉱石だけでなく、東北・関東・中部地方の中小鉱山からも鉱石を買い入れ、日立鉱山の大雄院製錬所でまとめて製錬するという手法でした。

買鉱製錬には大きなメリットがあります。自山の鉱量に制限されない急速な生産拡大が可能になるとともに、市場価格の変動に応じて買鉱量を調整することで弾力的なコスト管理も実現できたのです。この手法によって日立鉱山は大規模経営へと躍進しました。

近代化・機械化の推進

日立鉱山のもう一つの強みは、積極的な近代化・機械化にあります。1907(明治40)年には、金属鉱山として日本で初めてダイヤモンド試錐機を導入。それまで手掘りだった採掘作業には削岩機を採用し、生産効率を飛躍的に向上させました。

日立鉱山で最初に使用した削岩機
削岩機の仕組み

製錬技術においても革新がありました。「生鉱吹き」と呼ばれる、鉱石自体に含まれる鉄と硫黄の酸化熱を利用した銅製錬法を導入し、効率的な精錬を実現しています。

1908(明治41)年には製錬所まで5.3kmにわたる電気鉄道を敷設しました。他鉱山からの原料鉱石の搬入や製品の搬出に活躍したこの「鉱山電車」は、誰でも無料で乗車できるものとして地域住民にも親しまれ、最盛期には1日6,500人を運んだと記録されています。

自前の発電所の建設も進め、安定したエネルギー供給体制を確立しました。こうした一連の近代化投資が、日立鉱山の急成長を支えたのです。

日立鉱山選鉱場の全景+プロセス

銅の増産がもたらした煙害問題

日立鉱山の歴史を語る上で避けて通れないのが、煙害問題です。銅の製錬過程では、亜硫酸ガス(二酸化硫黄)が大量に発生します。このガスが周辺の山林を枯らし、農作物に深刻な被害を及ぼしました。

最初の煙害は1907(明治40)年、製錬所がまだ本山に置かれていた時代に、日立鉱山の西北側の集落で発生しました。煙害は当時の銅鉱山・製錬所にとって宿命的な課題でしたが、銅の生産量が増加するとともに被害の範囲は予想を超えて広がっていったのです。

煙害を受けたタバコの葉

1914(大正3)年には被害範囲が4町30村にまで拡大し、補償金の額も増大しました。隣接する集落では将来を悲観して栃木県への移住が検討されるほど、事態は深刻化していたのです。この間、日立鉱山が一貫して心がけていたのは、地域住民に対する誠実な対応と信頼関係の構築でした。

世界一の大煙突 ── 試行錯誤が生んだ煙害対策

失敗を重ねた初期の対策

大雄院製錬所は当初、八角形で高さ24mの普通の煙突から排煙を行っていました。しかし、溶かす鉱石の量が増えるにつれ、この程度の高さでは煙害を防ぐことができませんでした。さまざまな形状の煙突が発明・試作されましたが、かえって被害を拡大させてしまうこともあったのです。

大煙突設計図

設計を担当した宮長平作は、まだレンガ全盛の時代に、当時としては珍しい鉄筋コンクリート製の煙突を設計しました。建設には延べ3万6,800人の人員と、煙道工事を含めて30万円という巨額が投じられました。

当初は500フィート(約152m)の高さで計画されていましたが、建設途中でアメリカに506フィートの煙突があることが判明すると、急遽それを5フィート上回る511フィート(155.7m)に設計変更。1914(大正3)年、日立鉱山に世界一の高さを誇る大煙突が完成しました。

当時の大煙突
大煙突に使われた鉄筋とコンクリート片

総合的な環境対策

大煙突の完成によって煙害は大幅に減少しましたが、気象条件によっては煙が地表に降下し、季節によっては無視できない被害が出ることもわかってきました。

そこで日立鉱山は、大煙突を中心とする約10kmの円周上に複数の気象観測所を設置し、電話線で司令塔となる神峰山観測所と結びました。気象条件に応じて製錬量を調整する「制限溶鉱」を行い、煙害の発生を最小限に抑えたのです。

燻煙機

1909(明治42)年には農事試験場を開設し、亜硫酸ガスが農作物や山林に及ぼす影響を科学的に調査するとともに、耐煙性品種の栽培にも取り組みました。

さらに、荒廃した山々への植林も大規模に行われました。亜硫酸ガスに強い苗木を農場で育て、酸性化した土壌には石灰を混ぜ、裸地には乾燥に強い萱を植えてその活着を待ってから植林するという、地道な作業が続けられました。植林された苗木は累計で1,000万本にのぼります。また、日立製作所が工場や社宅を建設するたびに周辺に桜が植えられ、学校にはソメイヨシノの苗木が贈られました。こうして日立は桜の多い街になったのです。

無公害化の達成と大煙突の倒壊

亜硫酸ガスの回収技術は、長い年月をかけて段階的に進歩しました。1911年の排煙からの硫酸製造に始まり、1936年の電気集塵装置の設置、1939年の硫酸工場の稼働、そして1941年の転炉ガス回収によって煙害は大幅に減少しました。

その後、1958年の酸素精錬法の採用を経て1972年に自溶炉が導入されると、密閉型の炉で鉱石を溶解し、亜硫酸ガスを全量硫酸として回収することが可能になりました。そして、日立鉱山は無公害化を達成したのです。

酸素吹き粗銅と自溶製錬の粗銅

大煙突は長らく日立市のシンボルとして親しまれてきましたが、1993(平成5)年2月19日、建設から78年を経て、下部3分の1を残して突然倒壊しました。現在は修復されて54mの高さとなり、今も使用されています。

JX金属の工場と大煙突

76年間の歴史に幕 ── 閉山とその功績

1973(昭和48)年、日立鉱山は日立鉱山株式会社として独立し、月産粗鉱1万2,000トン体制で操業を続けるとともに、入念な探鉱が行われました。しかし、ついに鉱量が枯渇し、1981(昭和56)年9月30日、76年間にわたる歴史に幕を下ろしました。

日立鉱山最後の発破

日立鉱山が残した功績は、銅の生産だけにとどまりません。鉱山の発展に伴って関連産業が次々と生まれ、学校、病院、娯楽施設などのインフラも整備され、今日の工業都市・日立市の基礎が築かれました。久原鉱業から日本鉱業、そして現在のJX金属グループへとつながる企業の歴史は、日立鉱山の開業から始まっているのです。

日立市の全景

日鉱記念館を訪れて

日立鉱山の跡地に建てられた日鉱記念館

日鉱記念館では、日立鉱山の歴史を当時の資料や模型、実物の展示を通じて学ぶことができます。実際に使用された削岩機や鉱石の実物展示、坑道を再現した模擬坑道、そして鉱山周辺の精巧な模型など、見どころは豊富です。

‍模擬坑道
日立鉱山の鉱石
各鉱山の鉱石一覧
爆薬と火工品
竪坑
日立鉱山坑道断面図

まとめ

日立鉱山は、近代化と機械化によって日本有数の銅山へと急成長し、日本の工業化と経済発展を支えた重要な鉱山でした。

しかしその発展の過程では、銅の製錬によって発生する煙害という深刻な環境問題にも直面しました。日立鉱山では試行錯誤を重ねながら煙害対策を進め、世界一の高さを誇る大煙突の建設や気象観測網の整備、さらには排煙から硫酸を回収する技術の導入など、当時としては先進的な環境対策が行われました。

こうした取り組みは、日本の鉱業における技術革新だけでなく、産業と環境の共存を模索した歴史としても重要な意味を持っています。

1981年に閉山した日立鉱山ですが、その歴史は現在のJX金属グループへと受け継がれ、日本の非鉄金属産業の発展につながっています。

日鉱記念館には、当時の鉱山技術や資料、模型などが数多く展示されており、日本の鉱業史を知るうえで非常に貴重な施設です。鉱業や資源産業に興味のある方は、ぜひ一度訪れてみてはいかがでしょうか。

【撮影】

山本峻

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