兵庫県朝来(あさご)市にある生野銀山は、平安時代の807年に発見されたと伝えられ、戦国時代に本格稼働して以降、1973年に閉山するまで430年にわたって銀を産出し続けた鉱山です。銀の総生産量は約1,723トンで、佐渡金銀山や石見銀山と並び江戸幕府の財政を支えた日本三大銀山に数えられます。
明治時代には日本初の官営鉱山となり、フランス人技師コワニエの指導のもとで近代化が進められました。その後は三菱合資会社に払い下げられ、機械化と電力化を経て昭和48年の閉山まで操業が続けられました。
本記事では、現地取材の写真と図解をもとに生野銀山の歴史を紹介します。

室町~江戸時代ー戦国大名が銀山獲得を争った
生野銀山が本格的に鉱山として稼働し始めたのは室町時代です。1542(天文11)年、古老山の南麓で銀石が発見されたことをきっかけに、銀の産出が盛んになります。
当時の銀は貨幣の原料であり、軍資金に直結する重要な資源でした。そのため戦国大名たちは争うようにして生野銀山を支配下に置こうとするようになります。1578年に織田信長が代官を置き、本能寺の変の後は豊臣秀吉が代官を派遣。1600年の関ヶ原の戦い以降は、徳川家康が奉行を配置して幕府の直轄鉱山としました。
こうして産出された銀は、国内外の経済を動かしていきます。安土桃山時代には堺や博多の商人を通じて中国や東南アジアとの交易に使われ、日本の銀は国際的な決済手段として流通するようになりました。
江戸時代後半には、日本で産出された銀が世界の約3分の1を占めていたとされています。

江戸時代の採掘と製錬 ― ノミ1本から灰吹銀まで
江戸時代の採掘を担ったのは「掘大工(ほりだいく)」と呼ばれる専門職です。鑽(たがね)と鎚(つち)を使い、サザエの殻に菜種油を入れた灯りだけを頼りに、硬い岩盤を手彫りで掘り進めていきました。
労働時間は1日12時間。「狸掘」と呼ばれる狭い坑道は、高さ約90cm、幅約60〜70cmしかありません。大人が体を折り曲げて這わなければ入れないサイズです。坑夫のほとんどは30代で亡くなったといいます。
現代の貨幣価値で年収は約150万〜200万円。子だくさんの次男・三男や、里に住めなくなった流れ者が生野銀山にたどり着くケースもありました。慢性的な人手不足だったため、軽犯罪程度であれば雇い入れていたという記録も残っています。


手彫りで山を割った ― 露天掘りの痕跡
また、江戸時代には地表に露出した鉱脈を直接掘り進める「露天掘り」も行われていました。生野銀山の露天掘り跡は、佐渡金山の「道遊の割戸」に比べるとスケールは小さいものの、間近で見ることができます。

鉱石から灰吹銀ができるまで
生野銀山では、鉱石から純度の高い銀を取り出すために「灰吹法(はいふきほう)」と呼ばれる製錬技術が用いられていました。この技術は1533年に朝鮮半島から日本に伝わったとされ、生野銀山をはじめとする国内の銀山で広く普及しました。
下の図は、生野銀山で行われていた銀製錬の5つの工程を示したものです。鉱石を炭で焼く「素吹」から始まり、鞴(ふいご)で風を送りながら銀・銅・鉛を段階的に分離していきます。最終工程の「上銀吹」では代官が立ち会い、純度の高い銀に仕上げられました。


明治時代ー日本初の官営化と西洋人技師による近代化
1868年(明治元年)、明治政府は生野銀山を日本初の官営鉱山としました。
近代化の推進役となったのが、フランス人鉱山技師ジャン・フランソワ・コワニエです。コワニエは1868年に来日し、火薬を使った発破法の導入(日本初)、近代的な坑道の設計、選鉱・製錬技術の改善、鉱山学校の設立といった近代化を進めました。
1885年(明治18年)には、鉱石や資材を輸送するための「銀の馬車道」(生野〜姫路間、約49km)が完成。それまで鉱石の輸送は人力や馬に頼っていましたが、馬車が通れる幅の道路が整備されたことで、大量輸送が可能になっています。1889年には宮内省御料局の管轄となり、皇室の財産として扱われました。


三菱への払い下げと機械化 ― 年平均産出量が江戸時代の3倍以上に
1896年(明治29年)、明治政府の財政難と民間資本による鉱山の近代化・増産を図るため、生野銀山は三菱合資会社に払い下げられることになります。その後、三菱は水力発電の導入による電力化を進め、選鉱・製錬設備の機械化を加速させました。

採掘技術の進化 ― シュリンケージ採掘法とサンドスライム充填採掘法
三菱による機械化は、採掘技術そのものも大きく変えていきます。
昭和34年頃から導入された「シュリンケージ採掘法」は、鉱脈の上部から削岩機やダイナマイトで鉱石を崩し、下に溜めていく方法です。作業員は溜まった鉱石の上に立ちながら上へ上へと採掘を進め、最後に下部の抜き出し口から鉱石をまとめて回収します。生野銀山のシュリンケージ採掘跡は深さ約30mに達しています。


また、昭和28年頃からは「サンドスライム充填採掘法」も導入されました。鉱石を掘った後にできる空洞を放置すると地盤が崩落する危険があるため、選鉱工程で出た廃滓(サンドスライム)をパイプで流し込んで埋め戻す方法です。埋め戻された区画が隣の採掘区画を支える壁の役割を果たし、安全に採掘を続けることができます。




生野銀山の銀産出量
機械化の効果は、銀の産出量に明確に表れています。

三菱経営時代の年平均産出量は9,539kgで、江戸時代の2,914kgと比べると約3.3倍です。操業年数は江戸時代の4分の1以下でありながら、銀産出量は725トンに達しました。
閉山 ― 430年の操業に幕を閉じた生野銀山

三菱の経営下で機械化が進んだ生野銀山ですが、昭和に入ると徐々に鉱量が枯渇していきます。1970年(昭和45年)には、坑道が地盤の圧力で突然崩壊する「山はね」現象が発生。そして1973年(昭和48年)、鉱量枯渇により閉山しました。
坑道の総延長は約350km、最深部は880mに達した生野銀山は、閉山から1年後の1974年に観光施設として生まれ変わりました。現在では坑道の一部(約1km)が観光坑道として公開され、江戸時代の採掘跡から昭和に利用された機械を見学できます。


まとめ
生野銀山は、日本三大銀山の一つとして戦国時代から昭和まで約430年にわたり操業が続けられた鉱山です。戦国大名や江戸幕府の財政を支えただけでなく、明治時代には日本初の官営鉱山となり、日本の近代鉱業の出発点として重要な役割を果たしました。
明治時代に入ると、フランス人技師コワニエによる近代化が進み、三菱による機械化・電力化など、日本の鉱業技術の発展を象徴する鉱山でもあります。現在でも、江戸時代の手掘り坑道から近代的な採掘設備までが一つの鉱山に残されていることから、生野銀山は日本の鉱業史をたどることができる貴重な存在といえるでしょう。
【撮影・文】
山本峻
【出典】
史跡生野銀山
生野鉱物館
日本全国鉱山めぐり 決定版
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